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昭和6年(1931)、大牟田市生まれ。
三池高校、佐賀大学卒。 学生時代から音楽に親しみ、大学を卒業し上京後も音楽活動を続ける。 米軍施設内のクラブやバーでピアノを演奏したり、ビクター・オーケストラのピアニストとして全国を回ったりした。 音楽活動だけでなく、著述者としても活躍。 主な著書として、『悪魔の記憶術』(ロングセラーズ)、『1日で覚える受験英熟語』(徳間書店)、大牟田出身のストリッパー、ジプシー・ローズの人生を描いた『G線上のマリア』(現代史出版会発行 徳間書店発売)などがある。 平成14年10月、肺炎のため死去。
古希の境を超えると友人、知人の訃報が多くなる。小柳詳助氏。10月12日午前零時9分肺炎のため死去。享年71歳。同窓生の一人がまた旅立っていった。
彼は50歳を過ぎても、朝、夜、東京中野の自宅から代々木公園までを往復、マラソンを欠かさぬ健脚が自慢だった。天草マラソンなど各地の大会にも挑んでいる。
しかし、19年前突然脳内出血で倒れた。リハビリで回復に向かうが、今度は軽い脳梗塞を起こした。それでも再起に賭けていたが、力尽きた。
高校時代は音楽部。ピアノに夢中の日々を送っている。男女共学でない私たちは、下級生の女子生徒たちとピアノを連弾している姿に羨望を覚えたものだ。
「一日中グランドピアノを弾かせてもらい、いい学校だった。朝の5時の一番電車で登校、誰にも干渉されない、いい世界だった。三池『音楽学校』に行っている状態だった。」(関東地区高校2回卒同窓会報「ザ・ふうたん」第2号、平成7年11月1日発行)と彼自身思い出を書いている。
佐賀大学を卒業して、東京に移っても、音楽活動を続ける。立川基地など米軍施設内のクラブやバーで米兵相手にピアノ演奏、さらにビクターオーケストラのピアニストとして有名歌手とともに全国を歩いた話をよく聞かされた。音楽と並ぶもう一つの才能開花はモノ書きとしてである。24年前のある日、彼は新聞記者をしていた私の前に現れて、「いま、記憶術の研究をしているんだ」とその知識を披露した。「トウキョウ・メモリーセンター」を主宰してサラリーマン、学生を相手に従来の発想とは異なった独自の記憶術を伝授しているというのだ。私は早速この話を新聞に書いた。
これがきっかけで『悪魔の記憶術』(ロングセラーズ、昭和55年3月刊)を出版、ロングセラーとなった。「英語なら、5000語が三週間で覚えられる」という歌い文句のこの本は、書店だけでなく、コンビニにも配本された。改訂版(平成6年10月刊)を含め57版を重ね、計9万1千部を売った大ヒットとなった。彼の記憶術に恩恵を受けた人々は今も全国に多いはずだ。
続くヒットは、大牟田出身の同世代人、「裸の女神」と言われたストリッパー、ジプシー・ローズの人生を描いた『G線上のマリア』(現代史出版会刊、昭和57年12月徳間書店発売)だ。3年間、大牟田、直方、熊本、八代、防府、東京を歩き、彼女が生きた足跡を克明に迫った渾身の作品だった。
この作品は、第5回講談社ノンフィクション賞の最終選考6作品に選ばれたが、惜しくも大賞は逸した。後に、この作品をもとにしたテレビドキュメンタリー番組が作られ彼自身出演して彼女の人生を語っている。「これ(G線上のマリア)により、自分なりに文章に少し自信がついた。本を書き始めて20年近い。10冊ほどの著作のうち、2作のヒットは、まあ、確率がいいな。これからも書き続けていきたい。」(前出、「ザ・ふうたん」)と自らの今後のことを書いている。病気さえなかったら、確実に著述家の道を歩きつづけたことだろう。惜しまれてならない。
われわれ高校2回卒の関東地区同窓会「風譚会」の誕生は昭和32年頃と古い。会の名付け親は彼自身である。実は肋膜のため1年留年し、高校三回卒なのに永い間世話役を務めてくれた。「勉強家で物知り」「特異な才能の持ち主」 「個性豊か」「しっかりした価値観」「自己主張のはっきりした人」(10月15日、東京中野での告別式。毛利恒之氏のお別れの言葉から) 時には夜の銀座で酔漢相手に大喧嘩、蹴りを入れる無骨なところもあった。
思い出はつきない。安らかな眠りを祈るばかりである。