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大牟田市立図書館

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草野 唯雄(そうの ただお)

推理作家

大正4年(1915)大牟田市生まれ。

 

経歴・プロフィール

本名 荘野忠雄。 法政大学専門部中退後、明治鉱業勤務中に推理小説を書き始める。 昭和36年、本名で出した『報酬は一割』が「宝石」の第2回宝石賞佳作となり、「宝石増刊」に掲載される。翌年、草野唯雄のペンネームで発表した『交叉する線』が第1回宝石中篇賞を受賞した。さらに、三川中名義で『架空索道事件』を出し、小説サンデー毎日推理小説賞に佳作入選している。 昭和42年、『失われた街』が第13回江戸川乱歩賞候補作となり、翌年『大東京午前二時』として「推理界」に掲載。さらに、昭和44年に『見知らぬ顔の女』として改稿されている。 昭和43年『転石留まるを知らず』が第14回江戸川乱歩賞候補作となり、翌年『抹殺の意志』として刊行。また、その翌年には第23回日本推理作家協会賞の候補となる。 昭和44年から2年間、日本推理作家協会書記局長を務めた。 本格サスペンスを手がける作家として活躍。

 

故郷大牟田の思い出 (カルタックスおおむた開館10周年に寄せて)

大牟田市は私のふるさとです。

生れたのは三川町。祖母に縁側で遊ばせてもらった遠いまぼろしのような記憶が潜在していますが、これは後に父母から聞かされた話から刻み込まれた偽の記憶かもしれません。

二才か三才の頃、父の転勤で不知火町にひっ越したとき、父と共に人力車に乗せられ、恐くて泣きわめき、母の背に降ろされたのは確かな記憶として残っています。

不知火町では姉が入学した家政女子高の前の二階建の古い家で、その二階には盲目の琴の師匠が間借りしていた故で、子供の手習いで「六段」の曲をウロ覚えに弾いていたのを覚えています。

第七小学校の頃、担当の古賀という女の先生に手を持ち添えて習字の指導などを受け、はじめて異性としての感触を覚えたのも記憶の一つです。

夏は三池港の巨船が出入りする危険な水路などに海水浴に行ったりして、元気に遊び回る小学生でした。

家はその後、海岸に近い西浜田町に移転し、私も中学生となってよく遠浅の有明海の堤防に散歩に行きましたが、その堤防際に「遊廊」があって(今の若い人には想像もつかないでしょうが)、その建物の二階の窓から娼婦たちが、卑わいな冷やかしの言葉を投げかけていたものでした。

文筆への傾倒はまだありませんでしたが、友人の誘いで、"戦線"などの左翼誌を読み、家庭訪問の教師に見つかって停学処分を受けたこともありました。それを契機に左翼とは、縁を切り、もっぱら外国もののミステリーを読みふけるようになり、バスの中でウールリッチの"幻の女"に読みふけり我を忘れて終点まで乗り過した経験もあります。

その頃大牟田には太陽館、大天地などの映画館があり、弁士と楽隊つきの無声白黒映画を夢中で見物し、帰りには食堂でぜんざいなどを食べていました。

その後大東亜戦争で西浜田の家は強制そかいで取りこわされ、三池町にひっ越しました。

その後上京し会社員生活から作家に転身し、現在は川崎市の一隅に住居し、朝夕の散歩、読書、ぐうたら体操、テレビ、ビデオと悠々自適を真似た生活を送り、執筆はもうしていません。(むろん出版社の注文もありませんし)。時々 旧著の増刷などがあるくらいです。

そういう訳で、私の人生の一番懐かしい思い出は、あのチンチン電車の走っていた頃の大牟田に一杯つまっています。

炭鉱はなくなっても、大牟田市が福岡県の一雄都市として発展しつづけていくことを、市を愛される市民の皆さんが、しっかりふるさとを守って下さることを、心から念じてやみません。

 

(2001年5月 草野 唯雄)